つぶやく 水野南北

楽をしてネツトから拝借

其れにしても すごいかたなのですね。本は注文しました。イズレこの文章以外の面白いとこのせます。

この本は「腹八分に病いなし」という健康法の基本中の基本を、手をかえ品をかえ、さまざまな角度から、徹底的に、しつこいくらいくりかえしている。そのしつこさにはただならぬ気魂が感じられる。 「仏法は道理なり」(日蓮)ということばがあるが、健康法もまた道理でなければたらない。 道理とは自明の理であり、常識でもある。「腹八分に病いなし」という、古人が発見した道理を、キチンと守っていればもとより病気などは受付けないはずである。そういう簡単明快で、しかももっとも基本的な道理を無視して、ともすれば節度をこえた暴飲暴食に走ろうとするおのれの本能をコソトロールできないから、病いがはびこる。人間、病いを得れば、どのような強運の持主でも、その運命にかげりを生じる。 ところがいかなる医書にも健康書にも料理書にも、「食事が運命を左右する」などということは一行も書いてない。また、人間の運命を論じる易の本や宗教書をひろげてみても、そんなことには触れていない。 ところが、人間にとっていちばん大事たことは「生きる」ことであり、生きるためにもっとも必要なことは「食べる」ことであり、この基本中の基本、大事のなかの大事をなおざりにして、「……」健康法を追っかけたところで、あまり効果は期待できない。 原本を活字で翻刻した人間医学杜版『南北相法極意修身録(全四巻)』の「はしがき」で大浦孝秋氏は、こう述べている。 「水野南北が食は命なり運命なりと断じ得たことは、当時の観相家としては破天荒の考え方であったと思われる。南北が若し現代に生きていたら、今日の栄養科学を巧みにとり入れて、更に正確な運命判断を下し得たかも知れない。科学無き時代、医者でもなかった市井のいわば一介の売ト(ぼく)者が、〈食〉という本能をとらえ、その本能のつつしみと乱れが健否を左右し、心身の健否は精神と肉体を、よい方にも悪い方にも持ってゆく、それが即ち運命をつくる根元であると考えついたことは、余程の卓見である。〈中略〉古今医統に曰く(百病のくるしみは多く飲食にあり、飲食の患は色慾に過ぎたり、色慾は断つとも飲食は半日も断つべからず)と、話は少し極端ではあるが、食こそ生命の基本とすれば、生命の発展的活動が強弱正邪に岐れて、人の運命を左右することは当然といわねばならぬ。本書をひもとく読者よ、南北は宗教家ではないが宗教精神をもち、道学者ではないが倫理道徳の道を教えようとしている。ただ文字が足らず、表現が拙いために、その精神を掴み得ないことがある。この点、読む方で斟酌し心読熟慮されたい〈後略〉」 人間医学杜版では、原文それ自体のもつ時代の味を生かすために、原文をそのまま活字に組んである。そこで私としては、さらに一歩を進めて現代語に訳し、不明瞭な部分は削除した。 監修・注解は、群馬県境町の無宗派平等山福祉寺住職松原日治師にお願いした。師は中医学(漢方)、易などに造詣が深く、その関係の著書もいくつかある適任者である。 貝原益軒の『養生訓』は有名であるが、水野南北の『修身録』は、食を形而下の次元にとどめず、運命という形而上学に結びつけ、人問を総合的にとらえている点で卓越しているにもかかわらず、意外に世に知られていたいのはもったいない。これからのあるべき医学や健康法、そして人間そのものを示唆する本として、ひろく世にその存在を知らせたいものである。