つぶやき まとめて解説

ネツトは素晴らしい。2005年の解説


中世仏教というと法然親鸞日蓮などに代表される「鎌倉新仏教」のイメージが強いですが、彼らの教えは当時からすれば異端仏教です。あくまでも当時の仏教の主流は、真言や天台、それに華厳・法相など、いわゆる「顕密仏教」ですね。特に天台本覚思想や王法と仏法の融合、神祇信仰との習合などです。
 浄土信仰ですが、これ自体は通仏教的信仰で、特定の宗派に属さない教えです。つまり真言や華厳を学びながら念仏行を行うなどですので、念仏それ自体を否定することはありませんでした。しかし専修念仏(専修念仏は法然以前から存在しました)は、自戒作善の否定、阿弥陀仏以外の諸仏の排斥、浄土経典以外の大乗経典の排斥、神祇不拝などが批判の対象とされました。特に南都や叡山の学僧からすれば、仏教の根幹の否定ともとられたのでしょう。
 法然自身も弟子や信者に“諸仏諸宗を否定してはいけない”などの注意をしているぐらいですから、過激な信者の行為は目に余るものがあったのでしょう。『天狗草紙』などを見ると専修念仏のものは仏教徒の姿を借りて、仏法を滅ぼそうと企む天狗(悪魔)であると表現されています。また 鎌倉期の書かれた『沙石集』。著者の無住は禅僧ですが、真言・天台・華厳・法相などの諸宗を学び、通仏教的な思想を有していますが、その故にか「専修念仏」に対しては批判的で、専修念仏の徒が法華経を燃やして喜んでいる。地蔵尊を破壊している。神祇を敬わない。また末法の世では自戒や善行をなす者は救われず、破壊者・悪人が救われるのだと称して進んで悪行を行うなどと記し、彼らが悉く冥罰を被ったと書きます。特に「進んで悪を行う」というのは専修念仏の徒に広まった考えでしょうか、法然自身も阿弥陀の本願の曲解と、弟子に厳重に戒めています。

 いずれにせよ現代でもいえることで、新興勢力は過激な方向に走りやすい。また多くの人々はその行動に対して、必ずしも彼らに賛同していないのと同様です。それに「分かりやすい教え」というのは、どうしても伝統の破壊や教義の劣化を招きやすいものです。しかし、分かりやすくしなければ教えは広まらず一部のものになってしまう。書店で手にしやすい著名人の書く“分かりやすい仏教入門”などと称する本が、なんだかトンチンカンな内容であることと同じですね。でもそれであっても仏縁を結ぶきっかけになる。しかし、それが「仏の教え」だと思いこまれるのも困る。多くの祖師が悩んだジレンマですね。

ただし中世仏教の諸相は単純ではないので、いろいろと調べてみれば面白いですよ。