つぶやき いわくいいがたい

これからは福永先生の講話だけで。日記の題が終わらなくなりそうです。

道教は古代中国人の土俗的出プリミティブ名者から出発している。宗教でも、哲学でも、思想でもない、
曰く言い難いものであると、しかし、人間の深部に根っこがあるという意味では、逆に宗教であり哲学であり思想とも呼べると。

西方分化は、キリスト教ユダヤ教イスラム教が柱で、お互いを受け入れない。アジアはインドで発生した仏教が中国に渡り、日本にわたり、個人主義から同族主義そして日本では国家鎮護の宗教にさえなったと。ミツクスとコンビネーションを積み重ねで行くのが、アジアの文化の本質であると。

中国から伝わった稲作文化は、人の移動とともに生活の習慣から、もののみかた、考え方までが伝えられたと考えるべきであると。中学時代に習った社会の勉強ではここまで教えてくれたことはなかったはず。

仏教の伝来は西暦何年で、そのことを記憶するのが勉強。弱い60年を過ぎて、勉強とはなんであるのか
少しだけ気がついた今。それでもいいではないか。多くの未知なるものがまだまだ沢山ある。だから学ぶために、少しでも長生きしなくてはと、これでいいのです。

道教は中国だけのものでは決してなかった
日本に入っていた。


この道にすすまれた福永先生のこの直感が、今日であると。

8時51分 2224