つぶやき 恥ずかしい思いです
日光といえば、東照宮。そんな知識しか在りませんでした。
日本人と神たち仏たち 菅原信海によれば 以下の通り。
はずかしゃ はずかしゃ
日光の今昔
明治の頃から日光は輪王寺・東照宮・二荒山神社の三カ所が参詣所とされ、それぞれの境内は、いつも賑わっています。しかし、それ以前は「日光山」としてひとつに包括された関東の一大霊山だったのです。
奈良時代の末、勝道上人によって日光山は開かれました。四本龍寺が建てられ、日光(二荒)権現もまつられます。
鎌倉時代には将軍家の帰依著しく、鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出します。この頃には神仏集合が進展し、三山(男体山・女峰山・太郎山)三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)山社(新宮・滝尾・本宮)を同一視する考えが整い、山岳修行修験道(山伏/やまぶし)が盛んになります。
室町時代には、所領十八万石、500におよぶ僧坊が建ちならび、その隆盛を極めます。
江戸時代、天海大僧正(慈眼大師/じげんだいし)が住職となり、山王一実神道(天台宗)の教えで「家康公」を東照大権現として日光山に迎えまつります。「輪王寺(りんのうじ)」の称号が天皇家から勅許され、さらに慈眼大師(天海大僧正)・三代将軍「家光」公が新たにまつられ、「日光門主」と呼ばれる輪王寺宮法親王(皇族出身の僧侶)が住し、宗門を管領することになりました。法親王は14代を数え、幕末に及びました。
明治になり、神仏分離の荒波を越えて現在の「輪王寺(りんのうじ)」があるのです。
世界遺産の背景
栃木県日光市にある「日光の社寺(にっこうのしゃじ)」、自然環境と建造物群が一体となった宗教空間が古来の神道思想を顕著にあらわしていること、江戸時代初期から中期に建てられ建築物群は高い芸術的価値を有していることなどが評価され、1999年、文化遺産に登録されました。
登録資産は、2社1寺(東照宮、輪王寺、二荒山神社)に属する103棟の建築物群と周辺の景観遺跡(文化的景観)。
登録地域は、登録資産(核心地域)51ヘクタール、その周辺の緩衝地帯373ヘクタール。
二荒山(男体山)をはじめ諸山の神霊を祀ってきた二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、1200年以上の歴史を有する日光山輪王寺(にっこうさんりんのうじ)に代表される日光の社寺は、神を仏として崇める仏教と神道が融合した独自の信仰を育くんできました。
また、17世紀の天才的芸術家の作品群である東照宮と大猷院は、日本の宗教建築の様式としては最も近世的である権現造りが完成したもので、その後の霊廟建築や神社建築に大きな影響を与えました。権力の絶大さを象徴する豪華絢爛たるものですが、随所に平和を願う思いが込められています。
神厩舎に飾られている「三猿」に表現されている処世術、東回廊に飾られている「眠り猫」に象徴されているを平和を願う思い、含蓄のある徳川家康の遺訓など、現代に通じるものを感じられる場所でもあります。
明治4年(1868年)の神仏分離令以降、日光山内の仏教建築物を総称して輪王寺と呼び、東照宮以外の日光山内に点在する神道建物を総称して二荒山神社と呼んでいます。